御祭神と歴史

御祭神

明治戊辰の役以来、西南の役、日清戦争、日露戦争から大東亜戦争に至る幾多の戦役、国事・国難に殉じられた滋賀県出身の英霊。即ち郷土滋賀の守り神・近代日本の国造りの神を御祭神として奉斎する。

歴史(年表)

  • 明治8年4月

  • 明治9年5月

  • 昭和14年4月1日

  • 昭和22年3月

  • 昭和28年10月

  • 昭和31年3月

  • 昭和32年4月

  • 昭和51年4月

  • 昭和52年8月

  • 昭和53年

  • 昭和60年

  • 昭和61年4月

  • 平成元年

  • 平成3年

  • 平成7年4月

  • 平成17年7月

  • 平成17年10月

  • 平成28年10月

彦根藩と護國神社

万延元年(1860)桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された彦根藩では、藩を挙げて主君の仇討ちをとの議論が沸きあがり、藩邸においては続々と仇討ちのための士が集められ、水戸藩への対戦の準備が行われた。水戸は御三家の一つであり、彦根は譜代の筆頭である。このままいけば当然大藩同士、更には江戸市中はおろか日本全国の動乱ともなりかねない。幕府はこれを恐れ、「大名の不慮の死は事情の如何を問わずその家名を断絶せしめる」という法律を曲げて、事態収拾のために彦根藩の存続を決定し、大老の死を隠して怪我の届けを出させた。
 
しかしその後、直弼の死が世間の知る所となり、直弼の政敵が幕府の権力を握るようになると、藩主直憲は嘘の報告をしたとして、生前の父の罪状とともに10万石の召し上げと差し控、京都守護職の罷免を命じられるのである。これ以降彦根藩は藩論を改め、ひたすら直弼の罪を償うため幕府の手足となり、東奔西走する事となる。まず横浜の湾岸警備、次に堺浦の警備、天誅組の大和挙兵制圧、蛤御門の変では朔平門を守り長州兵と交戦し、第二次長州征伐では芸州広島へと兵を出した。
 
時代は慶応3年(1867)となり王政復古の大号令が発せられ、300年の徳川幕府も終わりを告げる事となる。これに伴い、直弼の安政の大獄の一件もあって、彦根藩は藩論を統一して官軍となる事を決める。慶応4年(1868)には鳥羽・伏見の戦いにおいて幕府軍を攻撃してこれを証明した。続いて将軍に味方をした桑名藩征討の官軍の先鋒を命じられ、さらに翌2月から始まる旧幕府御親征の東山道の先鋒となって下総国(今の千葉県北部と茨城県南部)流山の敵を討ち、大久保大和(元新撰組隊長 近藤勇)を捕らえて官軍の本陣へと護送した。
 
転じて下野国(今の栃木県)小山・宇都宮・日光・小佐越、進んで一本松に転戦して敵軍を敗走させた。その後は甲府城守備、北越出兵、東奥州進撃、会津若松城攻撃など、彦根藩は休む間もなく激戦につぐ激戦を経験したのである。
 
特に小山の戦いでは、小隊長青木貞兵衛頼実以下が弾丸を撃ち尽くして群がる敵中に突入、全員討死という激烈なものであったという。彦根藩ではこの戦闘に2千人の軍兵を動員し、下野で19人、陸奥で7人、合計26名の戦死者を出した。これら戦死者を弔う為、明治2年(1869)9月に招魂碑が現在の大洞竜譚寺境内に建立された。しかしその場所は遠く郊外を離れ、招魂碑はまるで墓石のようであったために、明治8年(1875)4月内務省布令によって招魂社造営に着手し、同9年(1876)5月に竣工。官祭招魂社として7月に青木貞兵衛頼実之命以下26名の神霊を招魂鎮座するを以って当神社の歴史は始まるのである。
 
これ以降、西南の役、日清戦争・日露戦争から大東亜戦争に至る数々の戦役、国事・国難に殉じられた滋賀県出身の英霊をお祀りし、現在に至っている。
 
※当神社には、彦根藩ゆかりの品として第17代最後の藩主井伊直憲公具足が納められ、現在は彦根城博物館に委託保管されている。

ギャラリー

  • 写真1:官祭招魂社の頃の写真
    写真1:官祭招魂社の頃の写真
  • 写真2:昭和18年頃の写真
    写真2:昭和18年頃の写真
  • 写真3:昭和32年4月
    写真3:昭和32年4月
  • 写真4:昭和51年4月
    写真4:昭和51年4月
  • 写真5:昭和52年8月
    写真5:昭和52年8月
  • 写真6:国宝彦根城
    写真6:国宝彦根城
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